◆今では忘れ去られている
◆江戸前のダンディズムを表現したかった

 原作の『天切り松 闇がたり』は、そもそも、読者のみなさんが大向こうにいて芝居を観ているような、そういうメージを持って書いたものなんです。ちょっと種明かしになってしまうんですけども、僕は(河竹)黙阿弥が大好きでね。黙阿弥の狂言を意識して書いたところもあるんです。だから当然、芝居にはふさわしい小説である、ということにもなるわけで。朗読劇として上演していただくと聞いたときは、本当に嬉しく思いましたね。
 黙阿弥の狂言は、別にストーリーが面白いわけではないんです。どれもだいたい似たような話ですから。じゃ、何に惹かれるのかっていうと、黙阿弥の使う言葉の美しさなんですね。僕ら小説家は文章の美しさは意識するけれども、言葉のリズムっていうのは案外気にしていない。でも、黙阿弥にはそれがあるんですね。声に出して読んで気持ちのいい、音楽的なリズムの美しさが。だから、昔の芝居通っていうのは必ず黙阿弥の狂言をそらんじたものなんだけど。僕も20代の頃に黙阿弥全集を買って、声に出して読んでひとり悦に入ってたぐらい(笑)、好きでした。
 そして、その言葉を使って黙阿弥が描いてるのは、江戸前の男気・女気だと思うんですよ。黙阿弥に限らず、歌舞伎の脚本のエッセンスというのは、結局、そこにあると思うんです。見目形ではなく、精神性が潔くカッコいい。生き方そのものがカッコいい。だから観客も、思わず「よっ、待ってました!」と声が出る。この『天切り松』もそういうふうに、読んでいて思わず声をかけたくなるような小説にしたかったんです。単に言葉面だけではなくてね。今では忘れ去られている江戸前のダンディズムというものを表現したかった。この小説にはいろんなタイプの登場人物が出てきますが、みんなそれぞれ違った形で江戸前の気性を持っています。表現の仕方は違うけれども、根底は同じなんです。


 

◆実在の人物を想像して書く
◆それがまた楽しいんです

 昨年上演された第一夜を拝見して、何よりありがたかったのが、この原作の魂をちゃんと理解して作っていただいていたことでした。演出もゴテゴテしてなくてシンプルでね。『天切り松』の骨格をいちばんいい形で抜き出してくれた感じがします。もともといい役者さんだなと思っていた、すまけいさんの語りもさすがでしたね。文庫本の最新刊(第四巻、3月刊行予定)では、解説も書いていただいたんですけども、やっぱりわかってくださっているなというすばらしいものでした。だからこそ、あの見事な語りができたんだと思います。またその語りのなかにお芝居がスッと入ってくる。その構造がね、すまさんと鷲尾真知子さんのやりとりを観ながら、よく考えたものだなぁとしみじみ感心いたしました。
 上演される演目も、非常に上手いところを抜いていただいてますね。第二夜で取り上げてもらうのは、清水の小政が出てくる「残侠」と、「宵待草」という竹久夢二が登場するちょっとしっとりした話。この組み合わせがいいでしょう。両方とも僕も好きなお話です。『天切り松』にはこういう実在の人物がいっぱい出てくるんですが、それをだいたいこんな人だったんじゃないかなと想像して書くのが面白いんですね。で、その想像が、たぶんある程度当たってると思うんですよ。当たってるといい小説になるんです(笑)。
 小政にしても、あの大人物である清水の次郎長が大政・小政と並べ称した子分なわけだから、ひとかどの人物だったと思うんです。じゃ、彼がもし大正時代まで生きていたら何をしたのだろうと、想像が広がっていくわけですね。竹久夢二に関しては、あれはたぶんイヤな男だったと思うんですよ(笑)。女たらしで、俺は天才だと思ってる、鼻持ちならないやつ。だけど、どういうわけか、女はこういう不良に弱いんだね。だからおこんさんも、竹久夢二が目の前に現れたらウキウキするんじゃないだろうかと。でも、その魔力の淵のところでくるっと身をひるがえすのが、おこん姐さんのカッコいいところなんですね。
 たまに、泥棒の話なんて教育上よろしくない、というような投書もくるんです。そりゃ、善悪の基準で考えるとそうかもしれない。でも、何でも善悪だけで判断して、美しいもの・醜いものっていうのを見分ける目を失ったら、世の中おしまいでしょう。合理的であれば汚くても何でもいいのかって思うんですよ。そういうふうにして、この東京も醜い建物がいっぱいできて町並みが変わっていったんだから。もうちょっと美醜にこだわったほうがいいと思うし、そのこだわりが、江戸前の気性にはあるんですね。

 

◆『天切り松』を書き続けて
◆言葉に宿る精神を残していきたい

 江戸っ子の気性が生まれた背景には、江戸の町に人口が集中したことがあると思いますね。江戸時代の中頃には100万人になっていたわけだから、江戸は世界最大の人口過密都市。人と人がすぐそばにいる。だから、周りの人に不愉快な思いをさせないようわきまえるっていう気性が生まれたんだと思うんです。“江戸っ子の見栄っ張り”なんていうのはまさにそうですよ。これを「東京の人間は派手だ」っていうふうに捉えるのはまったくの誤解。人に嫌な思いをさせないために身ぎれいに清潔にしておく。それが江戸前の見栄なんです。僕の祖父は煙草を買いに行くときでもネクタイを締めていました。子供の頃に「なんでそんな面倒くさいことするんだ」って聞いたら、「これはおしゃれしてるわけじゃなくて、誰とどこで会うかわからないから、きちんとしてなきゃいけないんだ」っていうようなことを言ってましたね。
 それともうひとつ、人口密度の問題と同時に、侍の影響もあったでしょうね。江戸時代の侍の人口は、全体の2割だったといわれてるんだけども、江戸ではこれが5割だったんですよ。参勤交代があって、全国から家来を連れてやって来るんだからそうなりますよね。で、その人口の半分を占める侍というのがまた、見栄の文化を持っていますから。武士は食わねど高楊枝。いつもきちんと姿勢を正してなければならない。そういう侍の文化と町人の文化が複合したんだと思います。
 僕は東京の中野で生まれたんだけども、周辺は全部、下町言葉を使ってたんです。というのも、関東大震災のときに深川を焼け出された人たちが、そこを与えられて移り住んだそうなんですね。だから、まさしく代々の江戸っ子。今は気をつけて丁寧に話してますけども、うちの娘なんかにはいつも、「その『おめぇ』っていうのやめてよ」っていうふうに嫌がられてますよ(笑)。確かに口は悪い。だけど、“江戸っ子は皐月の鯉の吹流し”でね、腹の中は悪気はないんですよ。町でバッタリ友達に会ったりすると、お互いニコニコ笑いながら、「ばっかやろう。なんでこんなとこにいんだよ」なんて言い合っている。それが江戸っ子なんですね。
 しかし、その僕でも、この『天切り松』を声に出して読むのは難しいんですよ。一度、朗読会で読んだことがあるんだけども、やっぱり中途半端な標準語が入るんです。そのときに、言葉を大切にしたいと改めて思いましたね。言葉が滅びていくのは恐ろしいですよ。だって、その言葉に含まれている精神性が滅びるっていうことですから。それはどんな事物が滅ぶのにも勝る、大きな文化の喪失だと思います。だから、どんなに娘に嫌がられようとも(笑)、できるだけ東京弁を使い、江戸っ子らしく生きていきたいと思いますね。『天切り松』も延々書き続けてね、この言葉に宿る精神性を残していきたいと思うんです。
 またこの小説を書くことは、僕自身が楽しいんですよ。普段は出しちゃいけないと気をつけてる言葉を、ここではいくら書いてもいいんだから。しかも、男気・女気にあふれてる人物ばかりですからね。自分で読み直してみても、背筋がしゃんと伸びる感じがするんです。ちょっと力を失くしたときに読むと、元気が出ますよ。だから、この朗読劇を観られる方も力をもらえるはず。劇場に来て、元気になっていただければと思いますね。

(文・大内弓子)

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